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二宿六峠小話

■ 日本最初の天守閣は、江尻にあった。その名は観国楼

  知名度・認知度   ★★★★★(星5つ)

 武田信玄が今川家を滅ぼしたのは永禄11年〔1568〕。念願の駿河の国を手中に収めた武田信玄は、駿府の旧今川城下町より海に通じる江尻を重視した。その時、武田信玄が穴山梅雪に命じて建立させたのが「観国楼」であった。「観国楼」とは、「国を正しく観る高楼」の意味で、その望楼は江尻城の天守閣を意味していた。
詳しい史料がないがこの望楼=天守閣は、織田信長の築城した安土城の天守閣より早く建設していたという。観国楼が建っていた場所は、そこは現在の江尻小学校の校舎のある中で、校内に江尻城の石碑がある。
戦前まで清水区内の秋葉寺には、この観国楼についての出来事が記されていたとい。ところが戦災で焼失してしまった。どこかで、この観国楼についての詳しい史料が発見されたら、その時、日本の天守閣の歴史が変わること間違いない。
テーマ:その他

■ 松平信康〔家康の長男〕の遺髪を埋葬した江尻宿の江浄寺(こうじょうじ)

 徳川家康は、最愛の息子〔信康(のぶやす)〕と正室の築山御前を織田信長の命令で殺さなければならなかった。理由は築山御前と信康が、武田信玄と内通していると疑われたことによる。戦国乱世の中で家康は苦しむが、信長との同盟関係を守り徳川家存続を優先させた。
利発な信康に家康は将来を期待していた、ところが天正7年〔1579〕9月15日、信康は遠州二俣城内で自害させられた。この時、榊原清政の侍女と家康の子供時代からの親友であった平岩親吉は、信康の遺髪を江尻宿の江浄寺(こうじょうじ)に五輪塔を建てて埋葬した。 
その後に家康が天下人となると、誰云うことなく東海道を往来する諸大名は、このお墓に参拝することが慣わしという。因みに徳川家康は関ケ原の戦いの日を、実は信康の命日〔9月15日〕に決行している。信康のためにも、「関ケ原の戦いは必ず勝利する」と誓ったのであった。江尻宿の江浄寺には、立派な信康の五輪塔が今も残っている。隠された歴史の一こまである。
テーマ: 徳川家康(大御所)に関わる小話

■ 国禁の清水港に敢えて入港したアメリカ元大統領ユリシーズ・グラントの目的は何

  知名度・認知度   ☆☆☆☆☆(星なし)

  リンカーン大統領の死後、北米第一の人気者はグラント将軍であり、1869年には圧倒的支持を得てアメリカ合衆国第十八代大統領に就任した。その時かれは46歳だった。1877年に大統領の任期を終えたグラントは、早速世界旅行に旅立った。この旅の途中でグラントは、突然船の方向を変え清水港に入港した。それは明治十二年のことであり、清水港は当時まだ国際港でなかったため外国船の入港は堅く禁止されていた。
グラントの清水港への入港を許可したのは天皇であり、その時のことをグラントは「帝の特別の配慮で、美しい清水港からの富士山を眺めることができた」と述べている。グラントは敢えて清水港に入港するため、彼は秘策を練ったと言われている。それは軍艦の中で船員が急に病気になったため、治療のため特別に天皇の許可をモールス信号で打電して許されたというものであった。ともかく、世界的に美しい清水港と富士山を見たかったのが最大の清水港に入港する目的だった。
グラント将軍は、清水港に投錨したときにイタリアのナポリ港を思い出したと『グラント将軍日本遠征記』に記している。それによると、「ナポリのことがふと脳裡に浮んだのは、多分富士山のせいであろう。これは有名な火山であり、地球の山岳美の一典型である。富士山は、雲にすっぽり隠れていたが、時々内気な、おおい隠すような霧の中からその麗容を見せた。富士山は、雄大な山であり、ここから三〇マイルの地点にあるが、ナポリから見るベスビオ山と同じように、間近に見える。このとき私はロングフェローの「夢のような絵の日本」の詩節を思い出した。」と。清水港から見る富士山が、すでにこの頃から世界的に知られていたことがわかる。
テーマ: 開国に関わる小話

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